日置弥左エ門範次 |
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応永年中伊賀に住す(1394〜1427)。 |
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安松左近丞吉次 |
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伊賀の住人、応永25 年3月(1418)範次より唯授一人を受く。 |
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弓削甚左衛門範次 |
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近江の住人、永正2年正月(1505)吉次より唯授一人を受けたが継承者なきため、伝授の弓書を三嶋大明神へ奉納して死去。 |
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石堂竹林坊如成 |
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天文20年8月(1551)三嶋大明神より弓削範次が奉納した弓書を下げ受けて、「日置一篇の射」を著す。天正の末年(1591)頃病死(死地不明)。 |
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石堂竹林貞次 |
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如成の二男。天承20年6月(1592)如成より唯授一人を相続したが、幼少(10歳?)のため、如成の高弟が補助す。成長して尾州清須城主松平下野守忠吉侯に仕え250石を領す。忠吉侯没後尾州徳川義直侯に仕え御弓矢奉行を勤め、慶安2年12月(1649)死去享年67歳。 |
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岡部籐左衛門忠治 |
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貞次より唯授一人を得、名跡を相続し徳川義直侯に召され御弓矢奉行を勤め、竹林流宗家たり。元禄5年(1692)死去。岡部家は以後幕末まで代々御弓矢奉行を勤める。 |
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浅岡平兵衛重政 |
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慶長11年正月(1607)京都三十三間堂にて根矢51本を射通し通し矢の嚆矢となる。 |
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飯沼林右衛門守明 |
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貞次より印可を得、元禄15年12月(1702)死去、享年73歳。 |
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杉山三右衛門吉次 |
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はじめ紀州侯に仕え、後に尾張藩平岩弥右衛門の同心を勤めた。寛永8 年(1631)2784本、12年(1635)3475本、13年(1636)5044 本を通し天下一となり、貞次より印可を得、延宝2年7月(1674)死去、享年73歳。 |
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佐竹源大夫吉金 |
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紀州の家士であるが尾州へ来て、貞次に射を学び印可を得て、紀州に帰り門弟を育てる。紀州竹林の祖とも言われる。 |
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長屋六左衛門忠重 |
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寛永10年(1633)貞次より唯授一人を得。寛永14年(1637)4313本、16 年(1639)5944本、17年(1640)6323本を通し天下一となる。貞享2 年12月(1702)死去、享年80歳。 |
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星野勘左衛門茂則
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(星野派初代)寛文2年5月(1662)通し矢6666本で天下一、忠重より唯授一人を得、竹林流正統四代を承継。寛文9年5月(1669)時間を余して8000本を通し天下一となる。徳川光友卿より300石を付加800石を禄し、元禄6年6月(1693)御船奉行となる。元禄9年5月(1696)死去、享年55歳。以後幕末まで代々御弓頭を勤める。 |
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星野勘左衛門久則 |
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明治10年7月(1877)家督を継ぎ、竹林流正統十三代星野派十代唯授一人を相続す。明治39年10月(1906)死去、享年63歳。 |
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星野廣 |
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久則の娘。久則に嫡男なく名跡を継ぐといえども道統を相続すること能わず、大日本武徳会範士大津幡豆三源正吉が後見として補佐す。昭和18年12月(1943)死去、享年72歳。大津正吉は昭和12年5月(1937)死去、享年84歳。 |
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冨田常正
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名古屋市在住。はじめ大津正吉師に就き、竹林流を学び免許印可を得く。大正11年9月(1922)星野勘左衛門家に入門、同15年(1926)星野家より唯授一人を受け、竹林流正統十四代星野派道統十一代を継承。戦後、徳風同門会を創立。昭和21年10月(1946)愛知県弓道連盟を創立し会長に就任。昭和28年(1953)範士八段、昭和35年1月2日(1960)死去、享年66歳。 |
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魚住文衛
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一宮市在住。昭和4年9月大津正吉師に就き、師亡き後は独自修業。昭和26年10月冨田常正師が主宰する徳風同門会に入門、冨田師亡き後徳風同門会師範代、昭和48年徳風会(昭和50年8月徳風同門会を改称)師範。平成4年7月(1992)竹林流正統十五代星野派道統十二代を継承。範士十段。愛知県弓道連盟会長を務める。平成11年3月25日死去、享年88歳。 |
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魚住一郎
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一宮市在住。昭和28年父文衛の手解きで弓道開始。昭和36年3月徳風同門会に入門。昭和57年3月徳風会幹事長、平成4年1月師範代、平成12年1月師範。範士八段。日本体育協会弓道公認コーチ、全日本弓道連盟理事・監事、国際弓道連盟設立実行委員会委員長、愛知県弓道連盟会長を務め、現在国際弓道連盟副会長、東海学生弓道連盟会長、名古屋大学体育会弓道師範、愛知県立一宮高等学校弓道非常勤教師等を務める。 |